脚折雨乞とは?

ー脚折雨乞とは
脚折雨乞は、埼玉県鶴ヶ島市の脚折地区に伝わる降雨祈願の伝統行事で、その発祥は江戸時代中頃、今から約250年前に遡ると言われています。
本来は旱魃の時に行ってきた雨乞い行事ですが、現在は4年に一度、夏季オリンピックと同じ年の8月第一週の日曜日に行っています。
 
脚折雨乞の特徴は、長さ36メートル、重さ約3トンの「龍蛇(りゅうだ)」を作って雨乞いを行うことにあります。
龍蛇は、白鬚神社前で麦わらと孟宗竹、荒縄によって作られ、雨乞行事当日、出発前に行われる入魂の儀によって「龍神」となります。
この巨大な龍神を、300人の男たちが雷電池(かんだちがいけ)までの約2キロメートルを担ぎ、まちを練り歩きます。
 
雷電池に到着すると、担ぎ手は龍神と共に池に入り、「雨降れたんじゃく、ここに懸かれ黒雲」と必死に叫んで、雨を祈ります。
行事の最後は担ぎ手によって一斉に龍神を解体しますが、これは池を汚すことで神の怒りを呼び、雨を降らせますためと伝えられています。
この解体の際、頭部に付けられた金色の宝珠を我先にと奪い合う様子は、見る者を圧倒します。
ー伝承
「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(1772~1789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(1830~1844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。
それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(1624~1644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった。」


ー明治7年の記録
明治7年(1874)夏の干ばつの時、「畑の作物が枯れそうなので、近隣の人が脚折雷電社で雨乞いをしたが、そのしるしがなかった。そこで脚折のムラ人が協議して、板倉雷電社に行き、神官に一晩中降雨を祈願してもらい、翌日、傍らの池の水を竹筒に入れて持ち帰った。
脚折雷電社で、白鬚神社の神官が降雨祈願をしていたが、そこに板倉の水が到着したとたん、快晴の空がたちまち曇りだし、まもなく雨が降った。」


ー中断と復活
脚折雨乞は、行事の担い手である専業農家の減少など社会環境の変化により、昭和39年(1964)を最後に一度途絶えてしまいます。
しかし、昭和50年(1975)に、雨乞の持つ地域の一体感を再認識した地元脚折地区住民が、「脚折雨乞行事保存会」を結成し、翌昭和51年、脚折雨乞を復活させました。 この年に脚折雨乞は、「鶴ヶ島町指定無形文化財」に指定されました。
現在では、4年に一度、オリンピック開催年に行われています。


ー文献に記された雨乞い行事
脚折での雨乞いに関して最も古い資料は、江戸時代の文化10年(1813)に記された「申年村方小入用帳(さるどしむらかたこにゅうようちょう)」で、その中に「壱貫四百文 右是ハ雨乞入用ニ御座候」と出てくるのが初見です。その後、弘化5年(1848)、文久2年(1862)の史料に、雨乞いの経費に関する記述が出てきます。【田中家文書】
現在の脚折雨乞の姿に近い記述としては、明治10年(1877)の名主田中佐平太の日記の中で、「・・・雨乞に村中一同鎮守へ集まり 板倉御水十時頃来る 午後雷電社へ行き蛇を池中に入れ祈る」とあり、初めて「蛇」が文献に登場します。【田中家文書】
その後、脚折雨乞は、「雨乞諸入費記載帳」、その他史料の記述から、明治26年(1893)、明治27年(1894)、明治36年(1903)、昭和4年(1929)、昭和7年(1932)、昭和8年(1933)、昭和9年(1934)、昭和22年(1947)、昭和24年(1949)、昭和39年(1964)に行われたことが確認されています。 その史料の中では、「大蛇」、「蛇体」と記され、現在(注)の「龍蛇」、「龍神」の名称は使われず、脚折雨乞行事保存会設立前後からの呼称であることがわかります。
(注)昭和4年の「雨乞諸入費記載帳」には、「蚊龍(こうりゅう)」と伝説上の動物の名が、一箇所記載記述されています。